足りない頭で考えてみた~吃音持ちの意識低い系ブログ~

もはや便所の落書きレベル。意識低い系(笑)の代表格。足りない頭で必死に考えた色々な事を書いてます。

吃音だから感受性が強いのではない

僕は前回の記事に書いたように吃音者だ。吃音は見た目に分かるような何かがあるわけではないので、実生活で大変苦労することがある。

そして、吃音者の多くは、自分が吃音であることを悟られないように懸命に隠そうとする。文字通り命を削る思いで隠そうとするのも事実だ。別に隠すのは悪い事ではない。誰でも人に知られたくないものはある。無理に知ってもらうこともない。

 

僕の勝手な推測だが、吃音者には一つの傾向があるように思う。それは、この(吃音の)苦しみは誰にも理解されない、と思っていることだ。理解されないというよりは、分かった風に共感してほしくないというのが近いかもしれない。

これだけ悩み苦しめられている吃音のことを、フツーの人に「うんうん、わかる、大変だよね」なんて言われると、ふざけんじゃねー! と反発してしまう。俺の悩みはそんな軽いもんじゃないんだ! というわけである。

吃音者は誰にも理解されないという悩みを抱える一方、理解を示されると、そんなに簡単なことじゃないの! と言ってしまう天邪鬼なのである。

 

吃音について書かれているサイトやTwitterには、吃音でなければ得られなかった事、というのがよく書かれている。その中で特に多いのが、人の気持ちを思いやる力が付いた、とか、繊細な感受性が身についた、といったものである。

よく吃音者が発することに、「障害の種類は違えど私も悩んできたからその人の気持ちがわかる」ということがある。つまり、健常者にはわからないことも分かってあげられる優しさが私にはある、ということだ。

 

これに対して僕は意見を言いたい。

同じように中々人から分かってもらえない障害を抱える人に対して、

「僕も吃音という障害を持っているから君のその気持ちわかるよ(健常者にはわからない共感ができるよ)」というのはいささか傲慢ではないだろうか、と。

 

こと自分の障害に対して理解を示されると強烈な拒否感を覚えるというのに、なぜ他人の障害には理解を示すことができるのだろうか。

 

こういうことが起こるのがなぜかというと、吃音であることを肯定したいがために、「吃音だから人の気持ちをよく考えられる」という風に思いたいからだ。苦しんで苦しんで付き合っている吃音が、自分の人生に対して何のメリットも寄こさないのは許せないのである。

吃音だろうがなかろうが、人の気持ちを汲み取り、思いやることができる人は出来るし、できない人はできない。そこに吃音だったから、というのは関係していない。

もし仮に、人の気持ちに過敏に気づけるというならば、それはあなたが持って生まれた素質であって吃音という後天的な要因によるものではない。

 

ここまで書くと吃音者を否定してるように思われるが、僕の思っていることは違う。

 

吃音という後天的なものによって感受性や優しさを身に付けたのではない。

人間としての優しさを生まれながらにして備えていたから様々な価値観や人との違いを受け入れられる。だから、「吃音だったから」なんて言葉を付ける必要はない。

「吃音」というネガティブな言葉を打ち消す為に、「吃音だったから○○できた」なんていう必要はない。吃音どうこう関係なく、持って生まれた優しさというストロングポインをもっと誇っていい。

 

吃音のことを考えるとどうしてもマイナスなイメージが先行してしまう。それに引きずられる形で、吃音とは関係ないことまで関係性があるかのように結んでしまう。

吃音だからアレができない(マイナス面)、吃音だからこういう能力が強くなった(プラス面)、そんな風に考えていないだろうか。

そんなことをしなくても、吃音である自分を、もっと愛してやれないものかと強く思う。