足りない頭で考えてみた~吃音持ちの意識低い系ブログ~

もはや便所の落書きレベル。意識低い系(笑)の代表格。足りない頭で必死に考えた色々な事を書いてます。

吃音が辛くて死にたい人よ、早まるな。ちょっとしたコツで考え方を変えてみよう!

吃音は辛い。死にたくなるぐらい辛い。

僕も学生時代や社会人なりたての頃は辛くて辛くて、毎日死にたい気持ちでいっぱいだった。

この辛さはは正直なところ吃音当事者以外には理解されにくいだろう。
誰かに相談したところで、ただどもるだけでしょ?練習すれば良くなるんじゃない?なんていう言葉しか返ってこない。

誰にも理解されない苦しみから、自分を追い込んでしまって希死念慮すら浮かぶ。

 

さて、吃音でが辛くて死にたいくらい悩んでる仲間たちよ、死を選ぶということだけはまだやってはいけない。死ぬのは人生の最期でいい。

辛くて死にたいくらいの悩みだが、ちょっとだけ考え方を変えるだけで、今よりもだいぶ楽になるはずだ。

僕が実際にどういう考え方をして、吃音の苦しみから解放されていったのかを是非シェアしたい。(吃音が治ったとは言ってないw)

 

評価には絶対的評価と相対的評価がある

まず、僕らが生きている社会では他人に評価されるということが付いて回る。

学校の勉強も、仕事の不出来も、すべて比べられて評価される。

相対的評価

このように、なにかと比べられて優劣を付けられることを相対的評価という。自分個人の資質や能力だけではなく、お前も頑張ったけど同期のアイツはもっと頑張ってるから評価はBね、みたいな感じだ。

生きていくうえでこれは仕方がないこと。

大学受験にしろ会社での給料アップにしろ、上限がある。みんな頑張って結果出したからみんなに恩恵を授けるということはできない。
入学定員が1000人しかない大学で5000人の受験者全員が8割以上の高得点を取っても全員は入学できない。
定員があるから、その中から受験者同士を比べて上位から順番に取っていくという事になる。

 

絶対的評価

対して絶対的評価というのはどういうものだろうか?

絶対的評価とは簡単にいってしまえば、周りの事なんか関係なくて、自分のやった成果だけを基準に評価するよ、ということである。

現在の学校教育ではおそらくこの絶対評価を導入していたと思う。テストで8割以上取れれば、好成績者が何人いようとも8割以上取った全員が通信簿で5がもらえるという仕組み。

これは自分以外の誰かの出来具合は関係ない。自分が基準を超えたかどうかだけ。

 

 

混ぜるな危険!相対と絶対

 で、ここからが一番言いたい事なんだけど、

この相対と絶対をごちゃ混ぜにしてしまって、苦しんでいる人がたくさんいる。

 

幸せとはなにか?という問いかけに、あなたならどんな答えをするだろうか?

もしかしてその答えは「誰かと比べて自分の方が良い」という基準になってない?

 

 幸せの尺度は絶対的評価である

自分が幸せかどうか、今の人生に満足しているかどうかは、自己の価値基準に従って決めるべきです。
誰かと比べて決めてはいけません。

「あの人はあんなにいっぱい稼いでる・・・それなのに俺はこれだけ・・・」

「あの人は結婚してて羨ましい・・・私は相手がいない・・・」

 「あの人は毎日が充実してそう・・・」

 

そんな風に誰かと比べてしまうのは、もう止めませんか?

 

自分以外の誰かと比べてしまうと、価値観も生き方も全て「他人のモノ」になってしまいますよ?

私たちは長らく誰かと比べられて評価をされるという世界で生きてきました。仕事も勉強も評価は相対的です。

でも、自分の人生は相対的に評価されるようなものではない、とうことは少し考えれば分かりますよね?
私だけの人生、たった一度だけの私の人生を、どうして赤の他人と比べられて評価されないといけないんでしょうか。
私の人生を勝手に他人に評価されるなんておかしな話ですよね。もちろん皆さんの人生だってそうですよ。自分の人生なんだから、自分に対する評価は自分で決めればいいのです。

 

人生の幸福感や充実感と、社会的評価や仕事での評価というのは深い結びつきがあります。なので、自分の人生を考えた時にも、社会では自分はどう評価されるか?なんてことを考えてしまいます。

一度、社会的なことと自分自身の事を切り離して考えてみてください。

社会的な評価と、自分自身が下す自己への評価は全く関係ありません。

自分の幸せと仕事での評価。それぞれは互いに関係しあいながらも、実は全く別の領域にいて個別独立の存在なんだ、と思って貰いたいです。

 

 

最後までありがとうございました。